ここ1〜2世紀の間に、メソポタミアの遺跡の発掘と、粘土板の翻訳が進んで、かつてメソポタミアのバビロニアで占星術が盛んだったことが知られるようになりました。今では黄道12星座はメソポタミア生まれだということもわかっています。ギリシャ占星術はバビロニア占星術の影響を強く受けました。私たちが使う西洋占星術はギリシャ占星術が起源ですから、バビロニアの影響が今日にも及んでいるといえるでしょう。 前7世紀の新バビロニア王国(前625〜539年)は、カルデア王国とも言われ、当時バビロニアで中心勢力となっていたカルデア人が活躍していました。ネブカドネザルが王になると、バビロニアは空前の発展を遂げました。軍事力は増し、経済的に富み、ネブカドネザルはイスラエルやエジプトに進軍し、イスラエルの攻略に成功しています(バビロン捕囚)。新バビロニアは天文学や占星術の分野でも発展しました。彼らは恒星や天体の周期をよく調べました。 メソポタミアの歴史は、様々な民族や部族、国家の台頭と衰退の連続です。隣国とは陸続きで連なっていたため、戦闘が絶えませんでした。上述の新バビロニアは100年もたず、前6世紀にキュロス大王が率いるペルシャ軍によって滅ぼされました。このような地域に住んでいれば、占いは楽しみごとばかりでなく、深刻な案件も多かったのではないでしょうか。かつて新バビロニア王国はメディア軍と連合して、新アッシリア帝国を滅ぼしています。占星術を扱ったカルデア人が活躍する前の新アッシリア帝国(前1000年頃〜前612年)でも、占いを頼り、星を観て占うことに熱心だった王がいます。 ♠ エサルハドン王 エサルハドンは、幼少期より病弱で、戦闘的な兄弟とは異なりかなり臆病で神経質だったそうです。それでエサルハドンは様々な占いをよく利用したと言われています。エサルハドンの父センナケリブは、バビロンを苦しめた悪名高い王として旧約聖書にも出てきますが、実の子供により暗殺されてしまいました。センナケリブの子供たちは後継者争いをしましたが、後継者になったのは末っ子のエサルハドンでした。 ♠ アッシュル・バニパル王 メソポタミアの王の中で、文字の読み書きが出来た人は少なかったそうです。あの楔形文字を粘土板に自在に書き込み、スラスラと読み取るのは古代でも簡単なことではなかったのでしょう。エサルハドン王の息子アッシュル・バニパルは文武に長けた数少ない王の一人でした。アッシュル・バニパルは、自分専用の図書館をニネヴェに設けました。自ら自叙伝を書き残しています。19世紀半ば、ニネヴェの図書館跡からアッシュル・バニパルの蔵書など3万枚近い粘土板が出土したことで、メソポタミアの文学作品が現代によみがえりました。 アシュル・バニパルは、戦いにも強く、エジプトの遠征にも成功しました。アッシュル・バニパルは、各地で天体観測をさせて、占いに役立てていました。メソポタミアの気候が安定していなかったため、帝国内の各地で天体観測をさせて、確実に観測結果を知らせるように指示していたことなども現在ではわかっています。 メソポタミアの占星術は、バビロニア周辺だけでなく、北部のアッシリアでも、カルデア人が活躍する以前にすでに利用されていたことがわかります。古い時代は、ホロスコープなどなく、月や太陽の関係、特殊な星の配置、観測時の光や色など重視されていたようです。 上空の大気の状態を当時の人々がどれほど意識していたのかはわかりませんが、天体を観測した際の光、色、見え方には、上空の大気の状態がかなり影響します。現代は気象衛星を打ち上げて天気予報を出すのに利用していますが、昔は雲や風向きばかりでなく、月や星の見え方を参考にしています。日の出前の恒星や天体のヒライアカル・ライジングは、細やかにこうした上空の状態を伝えていたようです。日の出前の地平線で、太陽の光が強まる中での恒星の一瞬の煌きや、数秒間に起こる色の変化などから、古代人は経験的に天候や未来を読み取っています。古代は、不作があれば国家が困窮しますから、略奪や内乱が起きやすかったのでしょう。天候と国家の動向を併せて予知したものが見られます。 2009年12月15日 新規 2009年12月20日 更新
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